北海道支部からの行事報告

北海道支部より
10月31日に市民講演会
「小倉清子氏:新生ネパールの誕生と震災からの復興~新憲法とその問題について~」が行われました。
2015.11.12 北海道支部より

新生ネパールの誕生と震災からの復興

新憲法とその問題

 

小倉 清子

 

  • なぜ、新しい憲法を公布することになったのか?

今年9月20日に“ネパール憲法2015”が公布された。ネパールの政党政治家やメディアは「国民の手で憲法を制定するという、70年来のネパール国民の夢がようやく実現した」と憲法公布を祝った。1951年2月にトリブバン国王が亡命先のインドから帰国して王政復古を行った後、国王は制憲議会を樹立して民主的な憲法を制定することを約したが、それは実現せず、1990年の民主化運動後に制定された“民主化憲法”も、政治家と専門家からなる憲法委員会が作成したものだった。

マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が1996年2月13日に人民戦争を始める9日前に、当時のシェル・バハドゥル・デウバ首相(ネパール会議派)に渡した“40項目の要求”のなかに「国民が選んだ代表が憲法を制定すること」という要求があった。マオイストは2001年2月の党総会で、制憲議会を樹立して新憲法を制定することを正式な党方針とし、同年9月にネパール政府と最初の和平交渉を行った際に、制憲議会のための選挙を行うことを3つの主要要求の1つとして打ち出した。2003年8月に開かれた2度目の和平交渉でも同様の要求を出したが、当時のロケンドラ・バハドゥル・チャンダ政府は「新憲法を制定する必要はない」として、この要求を拒絶した。

2005年2月1日にギャネンドラ国王がクーデターを起こすと、マオイストとネパール会議派を含む主要7政党が接近し、同年11月にニューデリーで歴史的な“12項目の合意”が成立した。この合意のなかにも、「制憲議会を樹立して憲法を制定すること」が含まれた。すなわち、この時点で制憲議会樹立の要求はマオイストだけでなく、主要7政党が共有するものとなったわけだ。主要7政党とマオイストの結託を背景に、2006年4月6日から国王の独裁体制に反対する19日間におよぶ“4月革命”が始まった。国民側の勝利に終わった後、4月30日に4年ぶりに再開された議会で、新憲法を制定するための制憲議会選挙を行う動議が可決された。

2006年11月21日にネパール政府とマオイストとが調印した“包括和平協定”で、マオイストは正式に武装闘争を終了したが、この協定のなかで、2007年6月半ばまでに憲法を制定するための制憲議会の議員を選出する選挙を行うことが決められた。しかし、実際に制憲議会選挙が行われたのは2008年4月だった。2008年5月28日に開かれた最初の制憲議会で、王制を廃止して連邦共和制に移行する動議が圧倒的多数の議席の支持により承認された。

  • 憲法の公布になぜ、7年半かかったのか?

2008年5月28日に発足した制憲議会は、新憲法を制定する期間として、当初2年間の任期が与えられた。しかし、マオイストの武装解除の問題や政権をめぐる主要政党間の攻防による政治混乱のために、憲法制定の作業は進まず、制憲議会の任期は4回にわたって4年間にまで延長された。この間、新憲法をめぐる未解決問題は主に、1)国のガバナンス形式(大統領制か議会制か)、2)選挙制度(直接選挙か比例代表制か)、3)連邦制(州制度)の問題の3つに絞られた。4回目の任期延長の期限が切れる12日前の2012年5月15日、主要3政党(マオイスト、ネパール会議派、統一共産党)はこれら3つの問題について合意を成立させ、このとき憲法公布の可能性が一気に高まった。しかし、マデシやジャナジャティ系(民族系)の超党派議員が連邦制の合意内容について反意を表し、その数が全議席の過半数を超える勢いとなったことから、マオイストのダハル議長が合意を反故にし、期限が切れる5月27日深夜、マオイストのバブラム・バッタライ首相が制憲議会の解散を宣告するとともに、2012年11月22日に2度目の制憲議会選挙を行うことを宣言したのである。

2度目の制憲議会選挙は予定通りには行われず、ほぼ1年遅れの2013年11月19日になってようやく実施された。2度目の選挙は前回と勝敗が逆転し、マオイストが大敗して第3政党に転落し、ネパール会議派が第1政党に、僅差で統一共産党が第2政党となった。第2次制憲議会の最初の議会が2014年1月22日に開かれた。主要3政党は1年以内、つまり2015年1月22日までに新憲法を公布することを公約したが、この公約も守られず、8か月遅れて2015年9月20日に公布された。

今年1月22日に主要政党が公約していた憲法制定の期限が切れた後、憲法制定のプロセスは一時期ペースダウンしていた。ところが、4月25日の地震の後、主要政党は国家復興のために政党間の団結力を見せようと試みて、6月8日に連邦制の問題を含めた合意を成立させた。憲法の制定が遅れた主な原因は、連邦制、すなわち、いかなる州を樹立するかについて、さまざまな政党やコミュニティーの意見・主張を調整することが困難だったことにある。最終的に、マオイストが大きく譲歩する形で州の数を6つとすること、州境は憲法公布後に専門家を含めた委員会を発足させて決めることで合意が成立した。しかし、この合意内容が明らかになると、西ネパールの住民や平野部(タライ)のタルーやマデシのコミュニティーが反対運動を始め、州の数を7つとすることで調整して憲法が公布された。

  • どんな憲法なのか?(憲法の主な内容)

1) 7つの州からなる連邦制をとるが、州の数は変更可能とする。州名と州都は州議会が樹立されたあとに州議会が決める。

2) 連邦議会の3分の2を超える支持により憲法を改正できる。

3) 国家元首は行政権をもたない大統領が、行政の長は首相が務める。大統領は州議会の議員および連邦議会の議員が選出し、首相は連邦議会が選出する。

4) 連邦議会は2院制とし、下院には小選挙区制165議席、比例代表制110議席の計275議席。上院にあたる国民議会は、7つの州で選出された56議席と大統領が任命した3議席の計59議席からなる。

5) 内閣は最大で25人の閣僚からなる。政権を安定させるために、政府発足から2年間は内閣に対する不信任案を提出することができない。首相には議会を解散する権利がない。

6) 母親あるいは父親がネパールの国籍(citizenship)を所持していれば、その子供はネパール国籍をとることができる。海外の国籍や永住権を持つネパール人にも、選挙権以外の権利をもつネパール国籍が与えられる。

7) ネパールは世俗国家だが、昔からネパールに存在する宗教や文化は国の保護を受ける。

  • 憲法公布後にインドが国境を封鎖したのは、なぜなのか?

インドにオリジンをもつ“マデシ”の人たちの政党の議員は、9月20日に公布されたネパール憲法のなかの州境や国籍などに関する条項に反対して、憲法を承認する署名を拒絶した。20日に開かれた公布のための公式式典にも欠席した。公布の前に、ネパールの主要3政党がマデシの人たちの要求を無視して憲法を公布しようとしていることが明らかになると、インドのモディ首相は憲法が公布される2日前の9月18日に、インド外務省のジャヤシャンカル次官をカトマンズに送り込んで、憲法の公布を延期させようと試みた。しかし、主要政党がインドの外務次官の要請を拒絶して、20日に新憲法を公布すると、インド外務省は20日の公布直後と21日に声明を出して、新憲法に反対するマデシ政党らの抗議運動により治安が悪化して、インドからの輸送トラックがネパール国内を移動することが困難になっていると指摘した。さらに、インド政府がネパールの政党リーダーに対して、繰り返しマデシやタルーの人たちの要求を解決するよう求めたことを明らかにし、ネパールがインド政府のアドバイスに従っていれば、こうした深刻な状況は避けられたと非難した。

インド外務省がネパールの主要政党を非難した2度目の声明を出した翌日の9月22日夜から、インドからの物資を運ぶトラックや石油燃料を運ぶタンクローリーが、国境のインド側でネパールへの入国を止められた。ネパールの4つのマデシ政党からなる統一民主マデシ戦線も、国境の道路で座り込みをしてインドによる国境封鎖に同調した。ネパールの石油燃料はほぼすべてインド石油公社からの輸入に頼っているが、その供給も止まったことから、カトマンズ盆地やその他の土地の人々は現在に至るまで燃料不足に直面している。10月11日に統一共産党のカドガ・プラサド・オリ議長が新首相に就任した後、一部の国境は開通したものの、首都圏の大動脈であるカトマンズ南のラクサウル(ビルガンジ)の国境が封鎖されたままであることから、燃料や医薬品の不足は解決していない。

マデシ政党の要求はインド政府の意向を反映している。その主な要求の1つは、議会におけるマデシの人たちの発言権を高めるために、人口に基づいて選挙区を決めるように憲法を改正することである。これについては、すでに主要政党は憲法を改正することを決めており、マデシ政党とネパール政府の間の話し合いは“州境”の問題に絞られている。

  • 震災の復興が遅れる

今年1月22日に新憲法公布の期限を逸してから、一時期暗礁に乗り上げていた新憲法制定のプロセスが再び勢いを得たのは、4月25日に地震が発生した後のことである。主要政党は震災からの復興のためにも政党間の団結を国民に見せる必要性を感じ、6月8日に憲法制定のためにブレークスルーとなった合意を成立させた。しかし一方で、震災の復興のほうはネパール政府の出足が遅く、進んでいるとはいいがたい。6月25日にカトマンズで開かれた“ネパールの再建のための国際会議”では、ネパール政府はインフラ再建に約7,000億ルピーが必要になることを明らかにし、日本を含めた海外から約4,400億ルピーの復興支援が約された。しかし、ネパール側がドナーに約した“復興庁”の発足が遅れていることから、地震で崩壊したインフラ再建は進んでいない。

政府は8月13日に復興庁(National Reconstruction Authority)の長官に国家計画委員会のゴビンダ・ポカレル副議長を任命した。8月26日に復興庁の最初の会議が開かれて、カトマンズ盆地を含む31の郡を被災地として、復興事業を行うことが決められた。しかしその後、復興庁に関連した法令を期限内に議会で承認しなかったことから、復興庁は何の活動もしないまま自動的に解散となってしまった。ネパール政府は7月に現在の財政年度予算を導入した際に、「5年以内に震災で崩壊したインフラの再建を完了させる」という政策を打ち出したが、復興庁の発足が遅れていることから、再建の作業は遅れるものと予測される。

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